Untitled Trueman's Digital Archive

~Gallery of Hindsight 2020~

Fujifilm X-T4: 40年遅れの夏休みの読書感想文

喪失感。何かが決定的に、取り返しようもなく失われたという、不安な感覚。この一遍の小説を読み始めて読み終わるまでの二日ほどの間に、僕は何を得て、何を失ったのだろう。

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Fujifilm X-T4 + XF Zoom 16-80mmF4.0

夏目漱石の「三四郎」。今から100年も前に書かれた小説。中学一年生の僕が夏休みの読書感想文を書くための題材として選んだ本だ。「何を読んだらいいだろう」と母に相談したら、中学生になったのだから、「三四郎」くらい読んでみなさいと言ったので、この本にした。しかし、読み終わった僕は一体何が書いてあって、何が問題とされているのか、皆目見当もつかなかった。

だから、この読書感想文を書いている今、最初にこの小説を読んだ時から、40年余りが経っている。この本を勧めた母も鬼籍に入って久しいが、大変遅ればせながら、以下が僕の40年遅れの読書感想文である。

さて、この小説を読み終えた私は、冒頭に書いたとおり、得体の知れない気分に浸された。最後のページを読んで本を閉じた時に、自分が、何か漠然とした空虚なものに腰のあたりまで浸かっていることに気がついたというような感覚。何か大事なものを失ってしまった、去ってしまった、という後悔のような感覚。喪失感、というのが適切なのであろうか。では、僕は一体何を失い、あるいは見失い、あるいは手放してしまったのか。

僕が失ったもの。この小説を読み終えた、今もうここにはないもの。思うに、それは美禰子の、そして三四郎の、それぞれの少女性、少年性ではなかったのか、と考える。それは、誰しもが避けることのできない、時間の推移とともに必ず喪われることが分かっているもの。僕たちはそれが失われることを分かっていながら、わすれている。いや、むしろ自ら手放そうとしているというべきかもしれない。そして、それが失われたと気がついた時に、深い喪失感に浸されるのであろう。しかし、多くの場合、僕たちはそれを失ったことに気が付かない。そんなに価値のあるものとは思っていなかったから。別の良いものを、それと引き換えに手に入れたから。あるいは、僕たちがそれを手放してしまったことに、まだ気がついていないから。

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そして、それがもはや失われたものであったことに気がついたから、僕の心は、この喪失感のような気分に浸されているのであろう。これが僕がこの本を読んだ後さらに2、3日考えてたどり着いたことである。

この喪失感がどこから来るのか分からなかった僕は、この気分の源泉がどこにあるのか、その理由は何であったかを考えた。三四郎の美禰子に対する恋心が失われたから、読者である僕は、主人公である三四郎と同一化しているために、作中人物に擬せられた喪失感を我がことのように感じているのであろうか。否。この小説を読んで僕はそのような心理的同一性を感じるまでに、三四郎が魅力的なキャラクターであるとは思えなかった。(あるいは、そのようなナイーブな感受性をすでに摩滅させていた。)

なるほど、インターネット上に落ちている匿名の誰かたちの言説を拾ってみると、「美禰子が本当に好きだったのは誰だったのか」という問いがなされている。「据え膳も食わない三四郎は今でいう『草食系男子』。美禰子の想いや悩みを「受け止める」ことの出来ない愚鈍な男で、だから美禰子は三四郎に愛想を尽かしたのだ」「美禰子は都会風の高慢な女性で、姉のように『上から目線』で三四郎に接している」などなど。そうすると、美禰子の心をうまく掴むことができなかった、三四郎の「失敗」に、僕の感じている喪失感、というよりは、敗北感の源泉があるのか? しかし・・・僕は考える。もしも、この物語が全く異なる展開をとって、冒頭で三四郎が東京に向かう汽車で出会った女と寝て、東京に来てからも、最終的には出会った女性全てと関係を結ぶというまるで村上春樹の小説に出てくる主人公のような展開をしていたら、この喪失感は感じなかったのか、と言えば、おそらくそういう問題ではないはずである。問題は誰が誰を好きになったのかではない。彼、彼女が何故それに惹かれたのかにある。そう僕は考える。

f:id:Untitledtrueman:20211003213028j:plainおそらく、三四郎と美禰子とは、最初から結ばれることはあり得ない関係にあったというべきではないか。最後の方で与次郎が三四郎に告げたように、同い年ごろの恋なんて「八百屋お七時代の恋だ」。そんな社会的な枠組み、世代的通念を前提として考察すると、三四郎と美禰子が結ばれるという図は、時間軸の中においた社会的な当該時点における視点から見ればある意味「近未来小説」的な、相当とっぴな光景ということになるのではないか。

三四郎」の続編と言われる作品を読めば、この喪失感が何処からきたのかわかるかもしれないと、「それから」を読みかけてふと気がついた。成人した男女たちの三角関係を題材としたこの作品は、世間の中に一定の位置を占める「大人たち」の物語である、と。そして、この「大人性」ともいうべきものが、三四郎と美禰子の物語には欠落していたような気がする。してみると、「三四郎」は、大人性を具有する前の人間、「少年性」、「少女性」とでもいうべきものが描かれているのではないか?

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この物語の一つの中核を成しているモチーフは、三四郎が与次郎に貸し、美禰子が三四郎に貸した30円という金であった。思うに「大人」とは、世界を金ではかり、認識し、把握する人々のことである。大人の世界では、全ては金に換算しうるのであり、逆に言えば金に換算できないものはこの世に存在しないの同義である。金は「大人性」の象徴であると同時に、「大人性」そのものである、と言える。その金を、預かった金を競馬に使って金策に窮した与次郎の相談を受けた三四郎は、ポンと気前よく貸し渡してしまう。まるで玩具のように。もっとも、三四郎という人物の中には、少年性と大人性が同居しているので、金の貸し借りに伴って生じる気兼ねや迷惑というものにも、場面によって想いは及ぶのであるが、しかし、困り顔の与次郎を目の前にした三四郎は、金の持つ「重さ」を自覚しない少年なのである。

そして、美禰子も金を紙切れのように扱う。与次郎の計らいで、なぜか弥次郎に貸した金を美禰子から借りる、という立場になる三四郎であるが、少年としての三四郎は、美禰子に会いに行く口実ができたと喜ぶ。他方で、彼の中に同居する大人性は、美禰子が兄の許可もなしに三四郎に金を貸すことで迷惑を被ることになるのでは無いかと思料を及ぼす面もあって、その結果、美禰子と三四郎との間で貸す、借りない、の問答が始まるわけだが、しかし結局、美禰子は三四郎に金を押し付ける。そして、「さっきのお金をお使いなさい」「みんな、お使いなさい」と三四郎にいう。この時の彼女にとっても金は「重さ」を伴うものではない。紙切れのように軽いものである。そして、金の重さを受け入れず、紙切れのように扱い、三四郎に預けることによって美禰子は三四郎との関係を維持しようとしているかのようにみえる。三四郎が美禰子の金を受け取り、美禰子の「あそび」につきあう限り、美禰子と三四郎は「共犯者」の関係に立てる。三四郎が金の「重さ」に気がつき、目を覚まし、美禰子に借りた金を返すとき、2人の「銀行ごっこ」あそびは終わることになる。もしも三四郎が美禰子が挑発した通りに、金を紙切れのように扱い、みんな使ってしまっていたとしたら・・・その時は、2人の関係は少女と少年の「あそび」における共犯者の関係として、定着することになったのかもしれない。しかし、そうはならない。当然のこととして、三四郎の中の「大人性」がそれを許さないからである。

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三四郎は画工原口のアトリエに行き、制作中の絵画のモデルとして原口の前に立つ美禰子に、原口の作業の隙を見て、借りた金を返そうとするが、美禰子に無言で断られる。アトリエをでた後、峰子は三四郎にいう。「あすこじゃ受け取れないのよ。」貸した金の返済を受け入れた時、三四郎との遊びは終わる。しかし、最終的に原口が「森の女」という題号を付与したこの絵が完成するまで、遊びを終わらせるわけにはいかない。何故ならば、三四郎に出会った時の自分の姿を固定することこそがこの絵のモデルになることに同意しつつ、画工に対してその構図を具体的に指揮した美禰子の思惑だったのであり、それが完成するまでは、美禰子と三四郎は「あそび」の世界にとどまらなければならないからである。

少女性の中にとどまり続けようとする美禰子。少年性の中にありながら、大人性に移行するべき必要も感じる三四郎は、「大人性」と「少年性」の間を出たり、入ったりするように感じる。そうしているうちに、原口の絵画は完成し、美禰子は、少年性と大人性との間を逡巡する三四郎をひと息に追い越して、大人性の世界へと去っていく。それが全ての少女の宿命であることを、美禰子は知っていたからであろう。

美禰子は、この作品の前作である「虞美人草」にでてくる女性主人公の、変奏されたものであり、ふたりの男を両天秤にかけ、最終的に破滅した女性、藤尾に擬える見方もあるが、僕はこの見かたに与しない。原口のアトリエにやってきた野々宮を前にして、三四郎に頬を寄せて見せる美禰子が、三四郎をダシにして野々宮を愚弄したと読むこともできるのであるが、これまでに述べたような僕の読み方からすれば、これも美禰子の「あそび」の一部にすぎず、わがままな少女の戯れの一つに過ぎなかったのだ、と断言するのは、牽強付会の論というべきであろうか。いわば野々宮は「大人性」の象徴であって、美禰子の「少女性」を永遠に定着させるための作業の場に闖入してきた野々宮に対して、少年性を共有する仲間とみた三四郎を巻き込んで、対抗しようとする少女の姿とみるべきではないのか。「ここはお前たち『大人』の来る場所ではないのだ」とでも言わぬばかりに。

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例えば、広田先生の新しい借家への引っ越しの手伝いに駆り出される三四郎。荷物より先に到着した三四郎がやることもなく、ぐずぐずしているところに美禰子がやってくる。「三四郎池」での出会いから数えて、三度目の、二人の邂逅の場面であるが、お互いの自己紹介や世間話などをした後、掃除をしなければならないだろうということに同意した三四郎に、美禰子が掃除道具を隣家から借りてくるように促す場面。美禰子の示唆に従って、隣の家から掃除道具を借りて三四郎が戻ってくると、三四郎が出て行った時と同じ場所に座ったまま、空を眺めている美禰子がいる。このシーンを「三四郎を使いに走らせて、姉のように振る舞う美禰子」と見る向きもあるかもしれないが、僕はむしろ、周囲の大人たちが動き回ってくれなければ、自分では何もできないし、しようとしない、無力な存在としての「少女性」を見るのである。(姉のように振る舞う女性といえば、おそらく「それから」の梅子が代助に示して見せるような態度を言うのではないかと思う。)

そして、借家の二階の窓から流れていく雲を眺めて「駝鳥の襟巻に似ているでしょう」と三四郎にいう。これに対して三四郎が野々宮から仕入れた「雲のように見える物は雪の結晶である」という解説を教えると、「雪じゃつまらない」という美禰子の言葉も、子供じみたわがままのように聞こえる。

そして、町民たちでごったがえす菊人形祭りの団子坂の人いきれに疲れた美禰子を誘って、あるいは美禰子に誘われて、谷中の方に連れ出した三四郎

「そうして美禰子を振り返って見た。美禰子は右の足を泥濘のまん中にある石の上へ乗せた。石のすわりがあまりよくない。足へ力を入れて、肩をゆすって調子を取っている。三四郎はこちら側から手を出した。

『おつかまりなさい』

『いえ大丈夫』と女は笑っている。手を出しているあいだは、調子を取るだけで渡らない。三四郎は手を引っ込めた。すると美禰子は石の上にある右の足に、からだの重みを託して、左の足でひらりとこちら側へ渡った。あまりに下駄をよごすまいと念を入れすぎたため、力が余って、腰が浮いた。のめりそうに胸が前へ出る。その勢で美禰子の両手が三四郎の両腕の上へ落ちた。

『迷える子』と美禰子が口の内で言った。三四郎はその呼吸を感ずることができた。」

 

Soseki Natsume. Sanshiro (Japanese Edition) (Kindle の位置No.1808-1815). Kindle . 

この美禰子の仕草、動きに、計算された女の誘惑というよりは、少女の戯れを、僕は見るのだ。

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この小説を二度読むと、実は二十年ほど経過したのちに美禰子に再会する三四郎の姿が描かれていることに気がつく。最初、このことに僕は気がつかなかった。しかし、一度この小説を読んだ後に感じた得体の知れない喪失感のでどころを捕まえようと、この小説の様々な場面を読み飛ばしているうちに、そのことに気がついたのだ。それは、三四郎が広田先生の家を訪ね、昼寝から目覚めた広田先生がまどろみの中で見た夢、という形で描かれている。広田先生は、夢の中で二十年前に出会った十二、三の少女に再会する。少女は二十年という年月の経過に関わらず、変わらぬ姿で現れる。この少女はすなわち画工原口が描いた、というよりは、美禰子が原口に描かせた、あの絵の中の美禰子なのだ。

以下に当該の記述を引用して僕の読書感想文を終えることにする。「三四郎」という小説において漱石がいい表そうとしたことはここに端的に述べられているように、僕には思われる。僕なりの言葉で、それを言い換えるとすれば、それは、こういうことだ。

人は、何かを得ることを予定し、計画し、それを目的として「生きる」のではない。「生きる」とは、「それ」を通過することである。そしてたえず何かを葬り去りつづけることである。何かを喪いつづけることである。そして、喪われることが、端からわかっていたとしても、そうであるからといって、その生きる行為に価値がなくなるのではない。寧ろ、何かを得るために生きられた生ほど、見窄らしいものはない。何故ならば、そうして得られたものも結局は喪われるのだというこの明らかなことに無知であるからだ。それは「のっぺらぼう」の人生ともいうべきかも知れない。

自らの宿命を知ることなく、あるいはそれに気づかぬふりをして、生きられる人生ほど、無意味なものがあるであろうか。

それが、この物語を読んだ僕が感じた一つの真実である。

「ぼくがその女に、あなたは少しも変らないというと、その女はぼくにたいへん年をお取りなすったという。次にぼくが、あなたはどうして、そう変らずにいるのかと聞くと、この顔の年、この服装の月、この髪の日がいちばん好きだから、こうしていると言う。それはいつの事かと聞くと、二十年まえ、あなたにお目にかかった時だという。それならぼくはなぜこう年を取ったんだろうと、自分で不思議がると、女が、あなたは、その時よりも、もっと美しいほうへほうへとお移りなさりたがるからだと教えてくれた。その時ぼくが女に、あなたは絵だと言うと、女がぼくに、あなたは詩だと言った」

夏目漱石三四郎」より)