Untitled Trueman's Digital Archive

~Gallery of Hindsight 2020~

Leica M Type240: 晩秋、そして「1973年のピンボール」

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上京して大学生として一人暮らしを始めたのは、都内でも有数の広大な墓地のそばにあった民家の二階の六畳間だった。下の階に五歳くらいの小さな女の子のいる夫婦が住んでいて、窓を開けると、見渡す限り墓地が広がっていた。時折夜中に金縛りにあったりすることはあったが、そのようなことを除けば、日当たりの良い、静かで居心地のいい部屋だった。

学校が始まってしばらくすると、悪友もでき始め、特によく一緒につるんでいたのは、近所の商店街から少し奥に入ったところにあった風呂なし共同便所のアパートの四畳半に住んでいた男だった。週末の夜、夕方に酒屋で安い甲類焼酎を買って、ファンタオレンジで割って飲みながら、一晩中いろいろな話をした。今となっては何をそんなに話すことがあったのか、そもそも何を話していたのか、全く記憶にないのだけど。

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とにかく、その男に勧められたのが「ハルキ」だったのだ。

「え、お前、ハルキ読んだことないの?」

「なんだよ、ハルキって」

村上春樹だよ。知らねーの?」

ノルウェイの森」がベストセラーになる前、「世界の終わりと・・・」も出ていなくて、「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」の3冊だけだったけど、買って読んでみた。1984年のことである。

すぐに村上春樹の作品の世界に夢中になったのだが、なぜ、村上春樹の物語に惹かれるのか、その理由はよくわからなかった。時代のキブン、なんとなく憂鬱なかんじ、そして都会的なイメージに惹かれていたのだと思うが、作品自体の意味を深く考えたことはあまりなかった。そんなことよりも他に、楽しくて切迫した問題が、たくさんあったからだと思う。

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ふとしたきっかけで、「1973年のピンボール」を改めて読んでみた。

そして実に感じ入ったのは「物語」の不在である。起承転結が、ないのだ。話の筋はこうだ。

東京郊外のアパートに住んでいる僕は、大学の友人と始めた小さな翻訳会社の共同経営者だ。共同経営者といっても、友人と、僕と、足の長い二十歳そこそこの事務の女の子の3人の小さな会社だ。僕は名前も知らない双子の女の子と一緒に暮らしている。ある日電信会社の技師が「配電盤」を交換するためにアパートにやってくるが、新しい配電盤に取り替えた後、古い配電盤をおき忘れていってしまう。取り外された古い配電盤は徐々に「死んで」いく。そして僕は古い配電盤の「葬式」をするため、共同経営者から借りた車で雨の日曜日に双子と一緒に郊外に向かい、溜池の中にその配電盤を捨てる。突如として(としかいえないほど唐突に)僕は学生の頃(と言っても1973年から逆算して3年前のことに過ぎないが・・・この、眠りにつく前にカントの純粋理性批判を読むという老成した主人公は、なんと24歳という若さなのだ!)に夢中になったピンボールマシンのことを思い出し、そのピンボールマシンの行方を探す。そして意外とあっさりとそのピンボールマシンを見つけ出す(というか、人に見つけてもらう)。東京都内だが、どこか得体の知れない郊外の潰れた養鶏場の冷凍倉庫のなかでそのピンボールマシンと再開した僕は、そのピンボールマシンと手短かな「対話」をする。そして日々は元に戻り、秋は深まり、双子は僕のアパートを去っていく。「何もかもがすきとおってしまいそうな11月の日曜日」に僕はビートルズの「ラバーソウル」を聴きながら、コーヒーを飲む。

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「僕」の物語と並行して僕の高校時代の友人である「鼠」の物語が進行するが、こちらも起承転結はない。大学に馴染めずに退学した「鼠」は毎日バーでビールを飲み、中国人のバーテンダーの「ジェイ」を相手に世間話をするだけが唯一の人的交流という「無為な」生活を送っている。ある日雑誌の不要物売ります買いますのページで見つけた電動タイプライターを買った鼠は、売主の女性と肉体関係を結ぶ。土曜日に彼女と会い、日曜日から金曜日を彼女と過ごした時間の記憶と、ビールの酔いで繋ぎ止めるという生活をしばらく続けた後、鼠は「街」を出る決心をする。いつものバーで「最後の一本のつもりだった」ビールを飲み干し、ジェイに別れを告げた鼠は「街」を見下ろす崖の上に車を停める。

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この、二つの物語というか世界が並走していく構図は、「世界の終わりと・・・」においてより明確に使用されることになるのだけど、これは夢幻能における「シテ」と「ワキ」の関係を思わせる。「鼠」が「シテ」であり、「僕」が「ワキ」なのである。そして、「配電盤」「双子」「ピンボールマシン」も、いずれも「死後の世界」「あの世」「彼岸」からやってきた「死者」たちなのである。

「君のことはよく考えるよ。と僕はいう。そしておそろしく惨めな気持ちになる。

眠れない夜に?

そう、眠れない夜に、と僕は繰り返す」

養鶏場の冷凍倉庫でピンボールマシンと対話する僕は、死後の世界にいるのだ。死後の世界で、死んだ過去の人と対話しているのである。渋谷の翻訳会社を経営し、毎日6本の鉛筆を削り、「バケツに入っているドブ水を別のバケツに移す作業」をする日常は、仮の生活に過ぎず、僕は「死者」たちと再会し、対話するためだけに生きている存在なのである。

「もう行ったほうがいいわ、と彼女が言った。

確かに冷気は耐え難いほどに強まっていた。僕は身震いして煙草を踏み消した。」

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この短い作品を読んだだけでは、何が何だかわからないのだが、それでも「僕」が時々に応じて呟く軽くてシニカルな警句や、全体を通じたなんとなく憂鬱な空気感だけでも何かを伝える力を持っているように感じる作品である。ここで「僕」や「鼠」が喪った、といっているものは何なのか。彼らの喪失感、無力感、失望はどこからきているのか。何が彼らをこれほどまでに絶望させたのか。

彼らは一体何を喪ったというのか?

いずれにしても、この作者が伝えようとしている物語の全体像は、「羊をめぐる冒険」そして「ノルウェイの森」が書かれるまでは、このある意味断片的な、脈絡のない物語からは、誰も明確には予見できていなかったはずである。そうではあるが、この短い一遍の作品単体であっても、何か大きなものが失われ、それが失われたことに対する強い想い・・・「怒り」と「絶望」といってもいいが、そのような強い感情がこの作品の底辺にあることは、十分感じ取ることが出来る。そして、それが何なのか、この作品を土台にして考え、説明を試みることができる、という意味で、やはりこれは一つの完成された物語なのだと私は思う。