Untitled Trueman's Digital Archive

~Gallery of Hindsight 2020~

Fujifilm X-T4: 40年遅れの夏休みの読書感想文

喪失感。何かが決定的に、取り返しようもなく失われたという、不安な感覚。この一遍の小説を読み始めて読み終わるまでの二日ほどの間に、僕は何を得て、何を失ったのだろう。

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Fujifilm X-T4 + XF Zoom 16-80mmF4.0

夏目漱石の「三四郎」。今から100年も前に書かれた小説。中学一年生の僕が夏休みの読書感想文を書くための題材として選んだ本だ。「何を読んだらいいだろう」と母に相談したら、中学生になったのだから、「三四郎」くらい読んでみなさいと言ったので、この本にした。しかし、読み終わった僕は一体何が書いてあって、何が問題とされているのか、皆目見当もつかなかった。

だから、この読書感想文を書いている今、最初にこの小説を読んだ時から、40年余りが経っている。この本を勧めた母も鬼籍に入って久しいが、大変遅ればせながら、以下が僕の40年遅れの読書感想文である。

さて、この小説を読み終えた私は、冒頭に書いたとおり、得体の知れない気分に浸された。最後のページを読んで本を閉じた時に、自分が、何か漠然とした空虚なものに腰のあたりまで浸かっていることに気がついたというような感覚。何か大事なものを失ってしまった、去ってしまった、という後悔のような感覚。喪失感、というのが適切なのであろうか。では、僕は一体何を失い、あるいは見失い、あるいは手放してしまったのか。

僕が失ったもの。この小説を読み終えた、今もうここにはないもの。思うに、それは美禰子の、そして三四郎の、それぞれの少女性、少年性ではなかったのか、と考える。それは、誰しもが避けることのできない、時間の推移とともに必ず喪われることが分かっているもの。僕たちはそれが失われることを分かっていながら、わすれている。いや、むしろ自ら手放そうとしているというべきかもしれない。そして、それが失われたと気がついた時に、深い喪失感に浸されるのであろう。しかし、多くの場合、僕たちはそれを失ったことに気が付かない。そんなに価値のあるものとは思っていなかったから。別の良いものを、それと引き換えに手に入れたから。あるいは、僕たちがそれを手放してしまったことに、まだ気がついていないから。

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そして、それがもはや失われたものであったことに気がついたから、僕の心は、この喪失感のような気分に浸されているのであろう。これが僕がこの本を読んだ後さらに2、3日考えてたどり着いたことである。

この喪失感がどこから来るのか分からなかった僕は、この気分の源泉がどこにあるのか、その理由は何であったかを考えた。三四郎の美禰子に対する恋心が失われたから、読者である僕は、主人公である三四郎と同一化しているために、作中人物に擬せられた喪失感を我がことのように感じているのであろうか。否。この小説を読んで僕はそのような心理的同一性を感じるまでに、三四郎が魅力的なキャラクターであるとは思えなかった。(あるいは、そのようなナイーブな感受性をすでに摩滅させていた。)

なるほど、インターネット上に落ちている匿名の誰かたちの言説を拾ってみると、「美禰子が本当に好きだったのは誰だったのか」という問いがなされている。「据え膳も食わない三四郎は今でいう『草食系男子』。美禰子の想いや悩みを「受け止める」ことの出来ない愚鈍な男で、だから美禰子は三四郎に愛想を尽かしたのだ」「美禰子は都会風の高慢な女性で、姉のように『上から目線』で三四郎に接している」などなど。そうすると、美禰子の心をうまく掴むことができなかった、三四郎の「失敗」に、僕の感じている喪失感、というよりは、敗北感の源泉があるのか? しかし・・・僕は考える。もしも、この物語が全く異なる展開をとって、冒頭で三四郎が東京に向かう汽車で出会った女と寝て、東京に来てからも、最終的には出会った女性全てと関係を結ぶというまるで村上春樹の小説に出てくる主人公のような展開をしていたら、この喪失感は感じなかったのか、と言えば、おそらくそういう問題ではないはずである。問題は誰が誰を好きになったのかではない。彼、彼女が何故それに惹かれたのかにある。そう僕は考える。

f:id:Untitledtrueman:20211003213028j:plainおそらく、三四郎と美禰子とは、最初から結ばれることはあり得ない関係にあったというべきではないか。最後の方で与次郎が三四郎に告げたように、同い年ごろの恋なんて「八百屋お七時代の恋だ」。そんな社会的な枠組み、世代的通念を前提として考察すると、三四郎と美禰子が結ばれるという図は、時間軸の中においた社会的な当該時点における視点から見ればある意味「近未来小説」的な、相当とっぴな光景ということになるのではないか。

三四郎」の続編と言われる作品を読めば、この喪失感が何処からきたのかわかるかもしれないと、「それから」を読みかけてふと気がついた。成人した男女たちの三角関係を題材としたこの作品は、世間の中に一定の位置を占める「大人たち」の物語である、と。そして、この「大人性」ともいうべきものが、三四郎と美禰子の物語には欠落していたような気がする。してみると、「三四郎」は、大人性を具有する前の人間、「少年性」、「少女性」とでもいうべきものが描かれているのではないか?

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この物語の一つの中核を成しているモチーフは、三四郎が与次郎に貸し、美禰子が三四郎に貸した30円という金であった。思うに「大人」とは、世界を金ではかり、認識し、把握する人々のことである。大人の世界では、全ては金に換算しうるのであり、逆に言えば金に換算できないものはこの世に存在しないの同義である。金は「大人性」の象徴であると同時に、「大人性」そのものである、と言える。その金を、預かった金を競馬に使って金策に窮した与次郎の相談を受けた三四郎は、ポンと気前よく貸し渡してしまう。まるで玩具のように。もっとも、三四郎という人物の中には、少年性と大人性が同居しているので、金の貸し借りに伴って生じる気兼ねや迷惑というものにも、場面によって想いは及ぶのであるが、しかし、困り顔の与次郎を目の前にした三四郎は、金の持つ「重さ」を自覚しない少年なのである。

そして、美禰子も金を紙切れのように扱う。与次郎の計らいで、なぜか弥次郎に貸した金を美禰子から借りる、という立場になる三四郎であるが、少年としての三四郎は、美禰子に会いに行く口実ができたと喜ぶ。他方で、彼の中に同居する大人性は、美禰子が兄の許可もなしに三四郎に金を貸すことで迷惑を被ることになるのでは無いかと思料を及ぼす面もあって、その結果、美禰子と三四郎との間で貸す、借りない、の問答が始まるわけだが、しかし結局、美禰子は三四郎に金を押し付ける。そして、「さっきのお金をお使いなさい」「みんな、お使いなさい」と三四郎にいう。この時の彼女にとっても金は「重さ」を伴うものではない。紙切れのように軽いものである。そして、金の重さを受け入れず、紙切れのように扱い、三四郎に預けることによって美禰子は三四郎との関係を維持しようとしているかのようにみえる。三四郎が美禰子の金を受け取り、美禰子の「あそび」につきあう限り、美禰子と三四郎は「共犯者」の関係に立てる。三四郎が金の「重さ」に気がつき、目を覚まし、美禰子に借りた金を返すとき、2人の「銀行ごっこ」あそびは終わることになる。もしも三四郎が美禰子が挑発した通りに、金を紙切れのように扱い、みんな使ってしまっていたとしたら・・・その時は、2人の関係は少女と少年の「あそび」における共犯者の関係として、定着することになったのかもしれない。しかし、そうはならない。当然のこととして、三四郎の中の「大人性」がそれを許さないからである。

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三四郎は画工原口のアトリエに行き、制作中の絵画のモデルとして原口の前に立つ美禰子に、原口の作業の隙を見て、借りた金を返そうとするが、美禰子に無言で断られる。アトリエをでた後、峰子は三四郎にいう。「あすこじゃ受け取れないのよ。」貸した金の返済を受け入れた時、三四郎との遊びは終わる。しかし、最終的に原口が「森の女」という題号を付与したこの絵が完成するまで、遊びを終わらせるわけにはいかない。何故ならば、三四郎に出会った時の自分の姿を固定することこそがこの絵のモデルになることに同意しつつ、画工に対してその構図を具体的に指揮した美禰子の思惑だったのであり、それが完成するまでは、美禰子と三四郎は「あそび」の世界にとどまらなければならないからである。

少女性の中にとどまり続けようとする美禰子。少年性の中にありながら、大人性に移行するべき必要も感じる三四郎は、「大人性」と「少年性」の間を出たり、入ったりするように感じる。そうしているうちに、原口の絵画は完成し、美禰子は、少年性と大人性との間を逡巡する三四郎をひと息に追い越して、大人性の世界へと去っていく。それが全ての少女の宿命であることを、美禰子は知っていたからであろう。

美禰子は、この作品の前作である「虞美人草」にでてくる女性主人公の、変奏されたものであり、ふたりの男を両天秤にかけ、最終的に破滅した女性、藤尾に擬える見方もあるが、僕はこの見かたに与しない。原口のアトリエにやってきた野々宮を前にして、三四郎に頬を寄せて見せる美禰子が、三四郎をダシにして野々宮を愚弄したと読むこともできるのであるが、これまでに述べたような僕の読み方からすれば、これも美禰子の「あそび」の一部にすぎず、わがままな少女の戯れの一つに過ぎなかったのだ、と断言するのは、牽強付会の論というべきであろうか。いわば野々宮は「大人性」の象徴であって、美禰子の「少女性」を永遠に定着させるための作業の場に闖入してきた野々宮に対して、少年性を共有する仲間とみた三四郎を巻き込んで、対抗しようとする少女の姿とみるべきではないのか。「ここはお前たち『大人』の来る場所ではないのだ」とでも言わぬばかりに。

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例えば、広田先生の新しい借家への引っ越しの手伝いに駆り出される三四郎。荷物より先に到着した三四郎がやることもなく、ぐずぐずしているところに美禰子がやってくる。「三四郎池」での出会いから数えて、三度目の、二人の邂逅の場面であるが、お互いの自己紹介や世間話などをした後、掃除をしなければならないだろうということに同意した三四郎に、美禰子が掃除道具を隣家から借りてくるように促す場面。美禰子の示唆に従って、隣の家から掃除道具を借りて三四郎が戻ってくると、三四郎が出て行った時と同じ場所に座ったまま、空を眺めている美禰子がいる。このシーンを「三四郎を使いに走らせて、姉のように振る舞う美禰子」と見る向きもあるかもしれないが、僕はむしろ、周囲の大人たちが動き回ってくれなければ、自分では何もできないし、しようとしない、無力な存在としての「少女性」を見るのである。(姉のように振る舞う女性といえば、おそらく「それから」の梅子が代助に示して見せるような態度を言うのではないかと思う。)

そして、借家の二階の窓から流れていく雲を眺めて「駝鳥の襟巻に似ているでしょう」と三四郎にいう。これに対して三四郎が野々宮から仕入れた「雲のように見える物は雪の結晶である」という解説を教えると、「雪じゃつまらない」という美禰子の言葉も、子供じみたわがままのように聞こえる。

そして、町民たちでごったがえす菊人形祭りの団子坂の人いきれに疲れた美禰子を誘って、あるいは美禰子に誘われて、谷中の方に連れ出した三四郎

「そうして美禰子を振り返って見た。美禰子は右の足を泥濘のまん中にある石の上へ乗せた。石のすわりがあまりよくない。足へ力を入れて、肩をゆすって調子を取っている。三四郎はこちら側から手を出した。

『おつかまりなさい』

『いえ大丈夫』と女は笑っている。手を出しているあいだは、調子を取るだけで渡らない。三四郎は手を引っ込めた。すると美禰子は石の上にある右の足に、からだの重みを託して、左の足でひらりとこちら側へ渡った。あまりに下駄をよごすまいと念を入れすぎたため、力が余って、腰が浮いた。のめりそうに胸が前へ出る。その勢で美禰子の両手が三四郎の両腕の上へ落ちた。

『迷える子』と美禰子が口の内で言った。三四郎はその呼吸を感ずることができた。」

 

Soseki Natsume. Sanshiro (Japanese Edition) (Kindle の位置No.1808-1815). Kindle . 

この美禰子の仕草、動きに、計算された女の誘惑というよりは、少女の戯れを、僕は見るのだ。

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この小説を二度読むと、実は二十年ほど経過したのちに美禰子に再会する三四郎の姿が描かれていることに気がつく。最初、このことに僕は気がつかなかった。しかし、一度この小説を読んだ後に感じた得体の知れない喪失感のでどころを捕まえようと、この小説の様々な場面を読み飛ばしているうちに、そのことに気がついたのだ。それは、三四郎が広田先生の家を訪ね、昼寝から目覚めた広田先生がまどろみの中で見た夢、という形で描かれている。広田先生は、夢の中で二十年前に出会った十二、三の少女に再会する。少女は二十年という年月の経過に関わらず、変わらぬ姿で現れる。この少女はすなわち画工原口が描いた、というよりは、美禰子が原口に描かせた、あの絵の中の美禰子なのだ。

以下に当該の記述を引用して僕の読書感想文を終えることにする。「三四郎」という小説において漱石がいい表そうとしたことはここに端的に述べられているように、僕には思われる。僕なりの言葉で、それを言い換えるとすれば、それは、こういうことだ。

人は、何かを得ることを予定し、計画し、それを目的として「生きる」のではない。「生きる」とは、「それ」を通過することである。そしてたえず何かを葬り去りつづけることである。何かを喪いつづけることである。そして、喪われることが、端からわかっていたとしても、そうであるからといって、その生きる行為に価値がなくなるのではない。寧ろ、何かを得るために生きられた生ほど、見窄らしいものはない。何故ならば、そうして得られたものも結局は喪われるのだというこの明らかなことに無知であるからだ。それは「のっぺらぼう」の人生ともいうべきかも知れない。

自らの宿命を知ることなく、あるいはそれに気づかぬふりをして、生きられる人生ほど、無意味なものがあるであろうか。

それが、この物語を読んだ僕が感じた一つの真実である。

「ぼくがその女に、あなたは少しも変らないというと、その女はぼくにたいへん年をお取りなすったという。次にぼくが、あなたはどうして、そう変らずにいるのかと聞くと、この顔の年、この服装の月、この髪の日がいちばん好きだから、こうしていると言う。それはいつの事かと聞くと、二十年まえ、あなたにお目にかかった時だという。それならぼくはなぜこう年を取ったんだろうと、自分で不思議がると、女が、あなたは、その時よりも、もっと美しいほうへほうへとお移りなさりたがるからだと教えてくれた。その時ぼくが女に、あなたは絵だと言うと、女がぼくに、あなたは詩だと言った」

夏目漱石三四郎」より)

 

Fujifilm X-T4と「三四郎」

「『どこか静かな所はないでしょうか』と女が聞いた。

谷中と千駄木が谷で出会うと、いちばん低い所に小川が流れている。この小川を沿うて、町を左へ切れるとすぐ野に出る。川はまっすぐに北へ通っている。三四郎は東京へ来てから何べんもこの小川の向こう側を歩いて、何べんこっち側を歩いたかよく覚えている。美禰子の立っている所は、この小川が、ちょうど谷中の町を横切って根津へ抜ける石橋のそばである。

『もう一町ばかり歩けますか』と美禰子に聞いてみた。

『歩きます』」

Soseki Natsume. Sanshiro (Japanese Edition) (Kindle の位置No.1707-1712). Kindle .

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Fujifilm X-T4 + XF16-80mmF4.0 + RAW developed by Adobe LR

1年ほど続いた「ライカモード」を経て、先日、久しぶりに我が家の最新鋭機、FujifilmのX-T4にズームレンズをつけて持ち出しました。フジのXシリーズはJpegで綺麗な写真が撮れるのでもっぱらJpegモードで撮影していましたが、今回は久しぶりにRAWで撮影して、Adobe Lightroomで現像してみました。

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今回は東西線神楽坂駅から早稲田駅の間を放浪。この辺り、明治の文豪、夏目漱石と縁のある土地です。街を歩いているうちにすっかり懐かしくなって、数十年ぶり?に「三四郎」を読んでみたりしました

「すべての物が破壊されつつあるようにみえる。そうしてすべての物がまた同時に建設されつつあるようにみえる。たいへんな動き方である。」

Soseki Natsume. Sanshiro (Japanese Edition) (Kindle の位置No.263-268). Kindle 版. 

熊本から上京した三四郎は東京に驚く。上に引用したのは、その彼のobservationの一部ですが、100年経った今日においてもこのことは変わらない。「変わり続けること」だけが「変わらない」東京の姿なのでしょうか。

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X-T4の良いところは、なんといっても、静かでソフトなシャッターレリーズの感触です。私じしんの使い方では、動画も撮らないし、連写もしないし、超高感度も使わないので、X-T4である必要はないのかもしれませんが、シャッターを切った時の感触や、ISOダイヤル、シャッタースピードダイヤルのクリック感といったユーザーインターフェースがPro-1、 Pro-2、X-E2にはない落ち着いた品質を感じさせるのですよね。ということで、すっかりX-T4に惚れなおしてしまった私、今週も持ち出したのですが、昨日のような重苦しい曇り空という状況だと、デジタルらしいシャキッとした画像が撮れず、そのうち雨粒が落ちてきたこともあり、珍しく1時間ほどで撮影を切り上げてしまいました。

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どうやらデジタルカメラはよく晴れて、空気の澄んだ日に使うのが良いようです。

ところで、冒頭に引用した「三四郎」の一場面は、おそらく今の千代田線千駄木駅のあたりではないかな。この辺りに南北に谷戸川という川が流れていたようです。今は地下水道に姿を変えてしまっていますが、この辺りを歩いていると、いかにも以前は川筋でした、というくねり方の路地があるのだけど、三四郎がいっている「小川が流れている」というのは、この路地、かつての谷戸川のことなのではないかと、思います。ここから少し歩いて草の上に腰を下ろしたところで美禰子が「Stray Sheep」と呟くわけなのですが、そんな長閑な風景の面影は、今は想像するしかありません。

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やはり「三四郎」の冒頭、東京に向かう汽車で乗り合わせた男(広田先生)との会話の中で、西洋人は美しい、日本人は「哀れ」だ、いくら日露戦争に勝って一等国になったと威張っていても、中身は貧しいものだ、という男に対して、三四郎がやんわりと否定の言葉を口にする。

「・・・三四郎日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。

『しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう』と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、

『滅びるね』と言った。」

Soseki Natsume. Sanshiro (Japanese Edition) (Kindle の位置No.249-251). Kindle 版. 

この小説が書かれたのが1908年。日露戦争の3年後。ポツダム宣言受諾まで37年。歴史の時間軸の中で考えると、果たして今、40年後の日本をこれほど的確に予測できる人間がいるだろうか。

この小説を読んでいると、学生たちの会話の中には、冒頭のベーコンに始まり、カント、ヘーゲルニーチェまで登場する。「御一新」以来ほんの数十年の間に西洋的思想を吸収しようとした日本の「駆け足」ぶりが垣間見えるようです。

 

ヘーゲルの講義を聞かんとして、四方よりベルリンに集まれる学生は、この講義を衣食の資に利用せんとの野心をもって集まれるにあらず。ただ哲人ヘーゲルなるものありて、講壇の上に、無上普遍の真を伝うると聞いて、向上求道の念に切なるがため、壇下に、わが不穏底の疑義を解釈せんと欲したる清浄心の発現にほかならず。このゆえに彼らはヘーゲルを聞いて、彼らの未来を決定しえたり。自己の運命を改造しえたり。のっぺらぼうに講義を聞いて、のっぺらぼうに卒業し去る公ら日本の大学生と同じ事と思うは、天下の己惚れなり。公らはタイプ・ライターにすぎず。しかも欲張ったるタイプ・ライターなり。公らのなすところ、思うところ、言うところ、ついに切実なる社会の活気運に関せず。死に至るまでのっぺらぼうなるかな。死に至るまでのっぺらぼうなるかな」

Soseki Natsume. Sanshiro (Japanese Edition) (Kindle の位置No.651-660). Kindle . 

法の哲学: 自然法と国家学の要綱 <a href=*1 (岩波文庫 青 630-2)" title="法の哲学: 自然法と国家学の要綱 *2 (岩波文庫 青 630-2)" />

 

 

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Summer Cheer

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Fujifilm X-E2 + XF35mmF1.4

夏のいいところはビールがいつにも増して美味しいところですが、デジタルカメラのいいところって、撮ってすぐに結果を見ることができるっていうことですよね。

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Leica M + Summilux 50mm

フルサイズだからなのか、ライカだからなのか、さすがお高いカメラで撮ったなっていう感じに見えるところが、やっぱりライカってすごいなって思いました。

ところで久しぶりに日野皓正のアルバムを聴いてます。1970年代の終わりから80年代にかけて「フュージョン」っていう分野の音楽が流行った時期があったけど、日野皓正もよくCMの音楽に使われてたように記憶しています。改めて聴くと、なかなかいいですね。

デジタルカメラのいいところはISO感度を自由自在に変えられて、ISO3200とかにも、できちゃうっていうところですよね。

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Fujifilm X100V

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Fujifim X100V

去年折角買ったX-T4、最近あまり使ってないな。もっと使ってあげないと、かわいそうだ。この間岩合さんの「猫歩き」を観ていてムラムラっとOM-Dが欲しくなり、そのあとE-P7が発売されたので、久しぶりにマイクロフォーサーズ、行っちゃう?っていうモードになってしまったのだけど、量販店で実機を見て、無事物欲の炎を鎮火することができたのでした。うーん・・・チルト式の背面液晶パネルが出っ張ってるのが、ちょっと好みではありませんでした。。ある意味、よかった。。。と言いながらも「これだったら、手持ちのE-P1も時おり挙動が怪しくなってきたし、そろそろだいぶ中古の値段も下がってきたE-P5買っとく?」と考え始めている自分が怖い気がします。。 

堀田善衛を読む。

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太初にロゴスありき@板橋区

「しかしその代償は高くついた。カルロスはスペインの銀鉱山、水銀鉱山の採掘権だけではなく、貨幣鋳造権までをフッガー家に手渡してしまったのである。すなわち、スペインは国外に向けての植民地世界帝国を形成すると同時に、その本国を外国の利権によって蝕ませ、被植民地化を開始していたのである。」

「折しも新大陸からの金銀財宝が流れ込みはじめていたのであったが、あわれなのはスペイン国民であった。金銀財宝の大部分は、彼らの頭越しに低地諸国とドイツに流出して行ってしまった。

「国内には不満と怨嗟の声が満ち、叛乱さえが各地で起こった。

「カルロスは、ここでもあのフィリップと同じく、彼の統治する人民を蔑視していたものであったろう。議会の怒りの声にも耳を傾けず、1520年の5月21日、彼は3年後に帰ると言い残してスペインを去った。」

堀田善衛「バルセローナにて」集英社文庫所載「グラナダにて」155〜156頁 下線は引用に際して付した。)

なぜ長々とこのような部分を引用したかというと、15世紀から16世紀にかけて、スペイン王国を世界覇者にしたアラゴン王フェルナンドとカスティーリア女王イサベルの統治の後の同じ国家が「自らが統治する人民を蔑視していた」後継統治者の、選挙において「神聖ローマ帝国の帝王に推挙されたい」という「我欲」・・・神聖ローマ帝国の皇帝の地位は、7人の選帝侯たちの選挙によるものであったのであり、その票を買収するため多くの金銀が必要であったという次第である・・・の対象以上のものでもなくそれ以下のものでもない単なる収奪の対象としての土地として取り扱われることによって、かつて7つの海を覇した国家の栄光も尊厳も富も、瞬く間に失われてしまったというこの経緯に、なにがしかふと自らの首筋が冷たくなる思いを感じたのは気のせいであったかもしれない。

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でも21世紀の日本において、16世紀のスペイン人民の心情に想いを馳せることができるようになるとは、全く想定の外であった。時間は過去から未来へと一方的に流れていくものと思い込んでいたが、過去から未来へ、のみならず、現在から過去へと時間が逆流することもある、そんな国も、もしかしたらこの地球の上には、どこかにあるのかもしれない。

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時間が渦巻き、逆流する国。そこでは生きながらにしてこの世を去った者に再会することができるのだ。そして過去の亡霊どもが生者たちを支配するということも、あり得ないことではないのかもしれません。

知らんけど。笑

 

「カフカ」的経験

1994年のことですが、ひょんなことで、ロサンゼルスとサンディエゴの間あたりの街のウエスティン・ホテルに長逗留することがありました。

アメリカの西海岸に行ったのは初めてだったのですが、あのあたりって、畑と砂漠とハイウェイしかなく、どこに行くにも車を運転していかないとならないところで、歩いて行けるところでめぼしい場所といえば、ホテルの隣にある大きなショッピングモールと、ジョギングで近所のだだっ広い畑の周りを走るぐらい。夕方になるとホテルのロビーでお酒を飲む他にすることがなく、暇つぶしに、ハイウェイの反対側にあった「八百半」の本屋で買った文庫本がフランツ・カフカの「城」でした。

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Leica M + Summilux 50mm ASPH

確か、主人公の役人が辞令を受けて「城」と呼ばれる官庁がある街にやってきたのだけど、なぜか「城」に入れてもらえなくて、ひとまず近所の宿屋に投宿し、「城」に入るために奔走するが・・・というようなお話だったと思います。ずいぶん長くて、暗くかつ退屈な描写が続く小説だったように思うのですが、私の日常もそれ以上に退屈だったので、最後まで読み切ったことを記憶しています。

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この小説に基づいてテリー・ギリアムの映画「未来世紀ブラジル」が作られたという話を当時聞いたように記憶しています。「未来世紀ブラジル」は学生の頃に何かの拍子でひとりでふらっと入った高田馬場あたりの映画館で観て、当時とても影響を受けた大好きな映画なのですが、なぜだかいつもデビッド・クローネンバーグ監督の「ザ・フライ」(食べるフライじゃなくて、「蠅」の「フライ」ね)との2本だてで上映されてました。

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同じ頃にウッディ・アレンの「Anny Hall」のビデオを買って、数ヶ月間の間に、多分20回は観たと思います。あの頃、なぜそんなにあの映画に惹かれたのか、理由は定かではないのですが、ちょっと精神的に参っていたのかもしれませんね。

その「Anny Hall」の中で、主人公のアルビーのガールフレンドがベッドで「Sex with you is really a Kafka-esque experience」とコメントするシーンがあります。・・・「カフカ的な経験」って、いったいどういうことなんでしょうね。「わたし、褒めてるのよ」って続くんだけど、余計に謎です。

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と、いうような極めて断片的なことを、この街を歩いていて、細切れに思い出しました。

だから、「坊っちゃん」

私はそれほど多くの本を読んだわけでもないが、それでもしかし、日本文学の中で最も素晴らしい作品を一つ挙げるとすれば、それは夏目漱石の「坊っちゃん」であろう。何故この作品が私の心を捉えて離さないのかその理由を考えてみるに、集中して読めば3〜4時間もあれば読めてしまうこのどちらかというと短い物語は、色々な角度から読み直し、眺め直すことで新しいことを発見できる、「まるで気づきの玉手箱や〜!」・・・。

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Leica M + Summilux 50mmASPH

例えば、同僚の教師「山嵐」から、初対面の挨拶がわりにと、氷水いっぱいを奢ってもらった坊っちゃんが、後で赤シャツの一味から山嵐が悪口を言っていたという告げ口を間に受けて憤り、氷水代を山嵐に突き返そうとする、というシーンがある。

「たとい氷水だろうが、甘茶だろうが、他人から恵を受けて、だまっているのは向うをひとかどの人間と見立てて、その人間に対する厚意の所作だ。割前を出せばそれだけの事で済むところを、心のうちで難有いと恩に着るのは銭金で買える返礼じゃない。無位無冠でも一人前の独立した人間だ。独立した人間が頭を下げるのは百万両より尊といお礼と思わなければならない。」Soseki Natsume. Botchan (Japanese Edition) (Kindle の位置No.1002-1006). Kindle . 

何気なく読み飛ばしてしまうところだが(というか、「坊っちゃん」全体が、ともすれば何気なく全部を読み飛ばして、「なるほどね、面白い」で終わってしまうような軽さを纏っている)、「菊と刀」の中でルース・ベネディクト女史はこのシーンに日本人の典型的な精神病性が如実に現れていると述べている。

「瑣末な事柄にこれほど神経をとがらせ、また、これほど痛々しい傷つきやすさをあからさまにする事例は、アメリカでは非行少年グループの調書や神経症患者のカルテにしか見られない。しかしこれは、日本人の美徳なのである。」ベネディクト,角田 安正. 菊と刀 (光文社古典新訳文庫) (Japanese Edition) (Kindle の位置No.1906-1908). Kindle 版.

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Leica M + Summilux 50mmASPH

また、坊っちゃんが学校の生徒たちを「祝勝会」に引率して連れて行くというシーンでは、生徒たちの野放図ぶりを揶揄する以下のようなくだりがある。

「・・・命令も下さないのに勝手な軍歌をうたったり、軍歌をやめるとワーと訳もないのに鬨の声を揚げたり、まるで浪人が町内をねりあるいてるようなものだ。軍歌も鬨の声も揚げない時はがやがや何か喋舌ってる。喋舌らないでも歩けそうなもんだが、日本人はみな口から先へ生れるのだから、いくら小言を云ったって聞きっこない。」Soseki Natsume. Botchan (Japanese Edition) (Kindle の位置No.1985-1989). Kindle 版.

「松山(引用注『群衆 機械の中の難民』を緒した松山巖」)は、漱石の祝捷会の描写のなかに出てきた生徒らのなかに、日比谷焼き打ち事件の大衆を見ているのである。それは通常考えられているような、都会人の田舎の人間に対する単なる蔑視ではなく、近代の大衆批判だというわけである。鋭い指摘と言えよう。」筒井清忠. 戦前日本のポピュリズム 日米戦争への道 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.567-570). Kindle . 

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ところで、最後の一行で漱石が使った「だから」は、日本語史上もっとも美しい「だから」の使いかた、と井上ひさしが評したということはよく知られているようである。

清の墓があるお寺とされている「養源寺」というお寺は、漱石が「清」のモデルとした友人の祖母の墓がある寺として実在するのだが、作品に書かれているように「小日向」ではなく同じ文京区でも「千駄木」にある。小日向は一度歩いたことがあるけど、まさにその名前のとおり、小春日和の日当たりの良い丘の上の住宅地であった。

こうして読んでいくと、漱石が設定した「坊っちゃん山嵐」vs.「赤シャツ、野だ」の二項対立構造は、僕が最初にこの本を読んだときに把握したように「正義」vs.「悪」というように捉えることもできるが、この物語は実は、この作品が描かれたときに訪れようとしていた未来をあえて「影」にして、過ぎ去り、徐々に遠ざかっていく過去を「陽」においた「陰画」だったのではないか。物語の進展とともに、日差しが陰って行くように、明るさが失われ、そして薄い夕闇のなかで物語が終わる。そして庭の片隅に残った小さな陽射しのかけらを、最後の一行に「小日向」という3文字を用いることによって描き出しているのかもしれない。

そんなふうに思います。

 

カドモス神の託宣

「文明をもたらす神カドモスが、竜の歯を播いたのだった。怪物の息で皮を剥がれ焼かれた土地に、人間が生えて来るのを見られるのを、人は待ち望んでいたのである。」(レヴィ=ストロース「悲しき熱帯」より)

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Leica M + Summilux 50mm ASPH + Jpeg

主人を失った家。夏を前に、つつじが鮮やかである。

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Leica M + Summilux 50mm asph + Jpeg

構図を考え直したり、雑なものを外そうとして、フレーミングしなおした写真よりも、最初にさっと、撮ったカットの方が、よいような気がするのは何故だろう。

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Leica M + Summilux 50mm ASPH + Jpeg

東京人たちのビルディングに囲まれて、そこだけぽかりと祈りの場所がある。いつまでこの空間が維持されるのだろう。人間たちが歴史を紡いできたのだし、これからも歴史を書きつないでいくのだ、という一つの野蛮な信仰から僕達が解放されることがないとしたら、それほどながいことではないだろう。

「・・・世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう。」(レヴィ=ストロース