あることないこと
私が本を読むことが好きになった理由は、子供の頃、家にテレビがなかったからである。
いや正確にはテレビはあったのだが、壊れていて、スイッチを入れてもいわゆる砂の嵐が映るだけだったのだ。
つまり、テレビの機能を果たしてなかったわけ。
ここで大事なことに気がついた。子供の頃、私の家にテレビは「あった」のに、今私はテレビは「なかった」と言いました。これは私がクロニックな虚言癖を有する人物であるということをお示ししているものではなく、言葉の構造がそういう仕組みになっているということである。つまり、私たちの脳にとって、存在と非存在の差異は、「物質」的な点にあるのではなくで、「機能」面にあるのであります。
これを「ポスト物質論的機能主義」という(今、つくった)。
別言すれば、機能を果たさないものは、私たちの脳にとっては「存在しない」と同義であるということを意味するというわけであります。
「であること」と「すること」の違いを指摘したのは70年前の丸山真男でしたが、このように考えていると、実は目の前にあるのだからあるのだと思っていたが、当の目の前のものは実はその機能を喪失していて、あるのだけど実はなかった、ていうか、あるんですよ、そこには、それが。でもそれは実はもうそのあれではなくで、結局それはもうあれではないから、それは実質的にはもうないのと同じ。っていうことになるのです。
日本には民主主義があり、自由がある。でもあるあると思っているだけでは本当にあるのか、実は定かではない。なので、そこにそれがあるということを確かめるために、たまにスイッチを入れて見ることが必要なのかもしれませんね。
あると思っていたものが、実はなかった(いや、あることは「ある」のだけど、機能していないから「ない」のと同じ)と気がついたときには、手遅れだった、ということがないように。